建築設備エネルギーラボ合同会社

植物も設備も「メンテナンスフリー」なんて幻想だ。

私は動物が得意ではないが、植物はいい。彼らは極めて「建築的」だ。

数百年を生き抜いた「巨樹」を見ると、これが神なのだろうと思う。もう生物というより、圧倒的な強度を持った構造体だ。重力に逆らい風雪に耐え、ただそこに在る。その構造美には畏怖すら感じる。

植物好きのルーツを辿ると、母方の曾祖母に行き着く。明治生まれで、生涯を着物でとおした人だった。私の記憶の中の彼女は、いつも「ロック」だ。

彼女の家(母と祖母の生家)にはベランダがあったが、そこに付いていたのは出入りしやすい掃き出し窓ではなく、跨がないと出られない腰窓だった。高齢の、しかも着物姿の女性だ。普通なら諦めるか、誰かに頼むだろう。

けれど彼女は、着物の裾をさばき、その腰窓をよじ登って外へ出ていた。ただ、鉢植えに水をやるためだけに。

「自分の世話したいものは、這ってでも自分で世話をする」その執念のような愛と自立心は、子供心に強烈だった。

曾祖母の愛した「紫陽花(あじさい)」は、今では巨大な「木」になって両親の家の庭で生き残っている。 一方で、父が集めた繊細な「さつき」は、世話ができなくなり枯れていった。

こう書くと、「強い植物はメンテナンスフリーで楽だ」という話に聞こえるかもしれない。 だが、設備屋としてその言葉だけは訂正しておかなければならない。

この世に「メンテナンスフリー」などという都合のいいものは存在しないからだ。

例えばエアコン。 多くの人が「スイッチさえ押せば永遠に涼しい風が出る」と信じている。だが、実際は違う。フィルター清掃をサボれば目詰まりを起こし、効率は落ち、いずれ故障する。

最近は「フィルターのホコリを自動で外に排出するから、ゴミ捨てすら不要」なんて顔をしたエアコンもある。 メーカーは「手間なし」と言うけれど、じゃあそのホコリはどこへ消えた?異次元にワープしたわけじゃない。ホースを通って外に出ただけ。「メンテナンスが簡単」なだけで「フリー(不要)」なわけじゃない。

「便利だね」と安心しているそこのあなた、今すぐ外へ行って、排気ホースの出口を見てみな。 出口がホコリで詰まってたり、外壁が薄汚れてたりしない?

結局、誰かがどこかで始末をつけなきゃいけない。家の中だろうが外だろうが。

植物も同じだ。雨水だけで育つ強靭な植物だって、放っておけば雑草に埋もれる。そこには必ず、人間の手による「選別」が必要になる。「これは残す」「これは抜く」。そのジャッジと最低限の手入れをサボれば、庭はただのジャングルになるだけだ。

曾祖母の紫陽花が残ったのは、単に強かったからだけじゃない。彼女が窓をよじ登ってでも水をやったように、残された家族が「これは残す」と決めて、最低限の環境を維持したからだ。

生き物も、機械も、人間関係も。何もしないで維持できるものなんて、ひとつもない。あるのは「手間をかけてでも残したいかどうか」という、こちらの意思だけ。

私が動物より植物を選ぶのは、世話が要らないからじゃない。そのメンテナンスのロジックが、自分にとって納得できるものだからだ。勝手に育っているように見えて、そこには必ず「生きようとする意志」と「生かそうとする管理」の攻防がある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です