【私が建物の”調律師”になるまで②】幽霊テナントと、思考停止の夜。私はただの「操り人形」だった。
【私が建物の”調律師”になるまで①】設計図の「その後」を知りたくて飛び込んだ場所は、めまいがするほどの「歪んだ空間」だった。
これは、まだ私が今より少し若く、自分の知識を過信していた頃の話だ。
私は「引越し魔」であり、建築設備のプロだ。そんな私が、たった1年で退去することになった「あるマンション」の話を供養として書いておこうと思う。
それは、内見の日に始まった。部屋に入った瞬間、私の鼻は明確な「警告信号(アラート)」を受信していた。下水のような、ドブのような、不快なにおい。
素人なら「なにこれ、臭い!」と逃げ出していただろう。しかし、私はプロだ。瞬時に脳内で原因を特定した(つもりになっていた)。
「あー、しばらく空室だったから、排水トラップの水が蒸発して『破封(はふう)』してるだけね。水を出せば直るわ。」
これが、すべての間違いだった。
なぜ、私はそんな安易な結論に飛びついたのか。それは、私がその部屋を「どうしても借りたい」と思っていたからだ。
立地、間取り、家賃。条件は完璧だった。人間というのは恐ろしいもので、欲しいものを目の前にすると、脳が勝手に不都合な情報を小さく見積もる。これを心理学で「確証バイアス」という。
「この部屋は素晴らしい」という結論が先にあり、「臭い」という事実は「水さえ足せば直る些細なトラブル」へと、脳内で都合よく書き換えられたのだ。設備屋としての知識が、皮肉にも「自分への言い訳」に使われてしまった瞬間だった。
入居して数日。 いくらキッチンや浴室で水を使っても、あの嫌なにおいが消えない日がある。おかしい。トラップには水が満たされているはずだ。
ある夜、私は探偵のようににおいの元を辿った。そして、禁断の扉を開けた。玄関横にあるPS(パイプスペース)だ。
そこには電気温水器が鎮座していた。犯人はこいつだ。正確には、こいつの「排水」だ。
電気温水器には、沸き上げ時に膨張したお湯を逃がす「オーバーフロー管」がある。これは衛生上、下水管と直接繋いではいけない決まりがあり、ホッパーなどで受けて「間接排水」にするのが正解だ。ここまでは正しくなっている。
だが、問題はその「受けた先」だった。
その排水管はおそらく、地下の汚水槽に放流されていたか、もしくは何かしらの圧力がかかる汚水主管に接続されていたのだろう。 建物全体の排水バランスが崩れる時、あるいは風が強い日、その管の中に強烈な「陰圧(負圧)」が発生していたのだ(と想像する)。
陰圧とは、空気が引っ張られる力だ。私がいくら手動でトラップに水を足しても、管の奥から発生する強力な吸引力が、その水をジュルジュルと吸い込んでしまう。結果、トラップは常に「空っぽ(破封)」になり、下水の臭気がダイレクトに室内に逆流する。
これはもう、私個人の力では直せない。建物自体が「呼吸器不全」を起こしているようなものだからだ。
PSと室内の隙間を埋めた。そして臭いがひどい日、私は電気温水器の間接排水口に、ペットボトルで水を注ぎ続けた。最新の設備知識を持つ私が、あまりにもアナログな対症療法で、見えない圧力と戦う日々。家族の状況が変わり引っ越すことになったのは、ある意味でこの部屋からの「救出」だったのかもしれない。
これから物件を探す人へ、設備屋としてのアドバイスを送る。
内見で玄関を開けた瞬間、「ん?」と違和感を覚えたら。どんなに条件が良くても、どんなに「直せる」と思っても、回れ右(Disengage)だ。
「臭い」は、目に見えない配管の奥底、建物の内臓からの悲鳴だ。理屈で納得させるな。生理的な嫌悪感に従え。人間の鼻は、どんな高性能なガス検知器よりも正しいのだから。