【私が建物の”調律師”になるまで②】幽霊テナントと、思考停止の夜。私はただの「操り人形」だった。
【私が建物の”調律師”になるまで①】設計図の「その後」を知りたくて飛び込んだ場所は、めまいがするほどの「歪んだ空間」だった。
家に小さなドラムセットがある。ほとんど叩かれていないきれいなヘッド。胴に詰め物をして、ペダルもミュート仕様にしてあるから、軽く叩けば騒音もさほど問題ない。だけど、きっとこの先も叩くことのないこのドラムを、私はなんで手放せないのか考えていた。
今住んでいる家は、介護と闘うための「前線基地」。父の介護が15年目に突入する中で、母の認知症の進行、骨折、入院、そして施設へお願いすることを決めるまで、私はこのドラムセットを眺めて落ち着きを取り戻していた。
私は苦しくなると楽器を買っていた。東京で働いていた時に買った電子ピアノ。ジャズピアノを習おうとしたが、あっという間にやめてしまった。慣れない仕事、エリートたちの中での劣等感、痛い恋愛・・・鍵盤が手元にあるだけで息ができていたのかもしれない。
長年、私は「裏方」「縁の下の力持ち」が天職だと思っていた。でも、なぜ今、ドラムを手放して「ギター」に向かおうとしているのか?
サカナクション・山口一郎という人のドキュメンタリー番組を見た。彼のラジオが大好きで、病気のことが気になっていた。
私は音楽を仕事にしなかった。仕事にするなんてそんなこと考えもしなかった。覚えているのは、Original Loveを初めて聴いた30数年前、「私が探していたのはこれだ」という気持ちともうひとつ、非常におこがましいのだが「これは自分にはできない」と思ったこと。
音楽に命をすり減らす山口一郎という人を見て感じたのは、私は音楽を「聖域(サンクチュアリ)」として守れてよかったのかも、ということ。
辛い時に買ったピアノやドラムは、自分を守る「防空壕」。だから練習もしなかったし、それでよかった。十分役割を全うしてくれたと思う。
そんな防空壕から出る決意をした今、どうやってこの身を守りながら表現を続けていくか。そこで浮かんだのがこの考え方。
勤めていた設計事務所の主宰が、顧客のことを「パトロン」と呼んでいた。当時はその言葉が好きではなかったが、芸術家である建築家にとって客はパトロン、そのとおりだと今は思う。
私には、最低でも二つの顔がある。設備屋としての私と、音楽を愛する私。だから私は「できること(仕事)」で稼ぎ、「やりたいこと(表現)」にお金を出すことがひとりでできる。
設備屋の私(パトロン)は裏方気質のプロ。そして、音楽を愛する私(表現者)は「メールが長い」と嫌われるほど世界を高解像度で描写し、ギターをかき鳴らして前に出たい。
設備屋の私が、表現者の私を「全額出資」で養う。これこそが、誰にも媚びずに表現を続けるための最強のシステムだと私は考える。
幼稚園の鼓笛隊のパレードで私は、本当は「グロッケン」がやりたかった。「ふさ」のついたあの格好いい楽器を持ってパレードの先頭を歩きたかった。でも私に与えられた役割は、モニタースピーカーとして、パレードを成立させるために太鼓たちの後ろから鍵盤ハーモニカでメロディーを送ること。ヤマハ幼児科のおかげで私にはそれが「できること」だったけど、決して「やりたいこと」じゃなかった。
子どもの頃は目立ちたがりだったと思う。それが大人になり、そんな気持ちを「格好悪い」と蓋をしていた。でも、こんなブログを書いている私、伝えたいことが山ほどあるし、面白い発見を共有したい。田島貴男という人がやっている「俺の音楽で楽しんでくれ!」という圧倒的なサービス精神を敬愛している。
50代でエレキギターを始めた私が描く未来像。60歳でギターを軽やかに操る『ロックなばばぁ』になってやる。希少価値があって最高に「格好いい」だろうという根拠のない自信。
だから「できること」は人のために、「やりたいこと」は自分のために。この二輪駆動で2026年は走る。
戦闘が終わった「前線基地」にいつまでも居る必要はない。私はこれから平和な場所へ「凱旋」する。そこには自分に必要なものだけを選んで持っていく。ドラムセット(戦友)に別れを告げ、ギター(翼)を持って、新しいコックピットへ。
「待ってろ、2026年!」